2010年7月21日

時間を売って生きている

昔っからなんとなく思ってることなんだけども。
今ひとつうまい表現、言い回しができなくて、この感覚については誰とも話したことがない。

健康に、幸いにも事故に合うことなく、まっとうに生きたとして、まぁ人生80年。
順風満帆に教育課程をこなして18年~22年。
今の世の中じゃ男女問わずに仕事しなきゃ食っていけないので、高卒と大卒の間を取って、会社勤めして40年。
老後と言われる時間が20年。

生きていく上で欠かすことができない、食う、寝る、出すって時間が一日あたり10時間とすると、一日に使える時間は14時間。小さい頃のどうにも制御不能な時間を10年分省いて、30年×14時間=17.5年。
仕事をし始めたら、まぁ日に2時間は残業があったとして(あくまでサラリーマン換算です)4時間が自由になるか。年間休日100日としたら、勤めてる期間はの自由に使える時間ってのは計算式面倒なんでざっと見て10年分ぐらいか。

合わせて30年弱の時間を、生きていく中で好きに使えるってことになる。

ビデオゲームが大好きで、ほんの数年前までそればかりやってる日もあったぐらいなんだけれども、やってる最中はいいんだよ。楽しいから。
ところが、「あー、俺ゲームしかしてねぇ」って考えた途端、ゲーム代金を支払ってまで、先述の好きに使える時間にを消費してるっていう感覚に襲われたら、たまったもんじゃない。普通楽しいこと、やってて満足することならそんな感覚をもつことも無いんだろうけど、ゲームってやり過ぎると「作業」になっちゃうんだよね、きっと。

これ、ゲームに限ったことじゃなくて、本読んでても、漫画読んでても、TV見てても同じ感覚に襲われることがある。終いには仕事しててもそう。
やることなすことすべてに至上の意味を求めて生きてたら、それはそれは息が詰まって疲れちゃうんだけど、俺って人間はあまりにも意味が無いことして日々生きてるんじゃないだろうかなんていう考えがふと頭を過ぎったりするんです。

これが、タイトルにした「時間を売って生きている」って感覚なんだけど…
「売って」っていう表現が正確じゃないかもしれないんだけど、自分の時間の対価は例えば仕事における給料みたいな、家庭菜園での作業に対する実りみたいな、そういうプラスの対価ばかりじゃなく、ただただ時間が消費ささるっていうゼロだったり、マイナスだったりする。

心が病んでるのかもしれないし、大きな思い違いをしているのかもしれない。
なんだけど、だからこそ、こういう考えが頭を過ぎったときは、普段の自分の生活を省みるいい機会かな?と思うようにしている。


…つもりなんだけど、ちょっとした横槍ですぐにヤル気がそがれるヘタレなので、どちらも一過性のものでしかないってのがなんとも…